2017年5月8日月曜日

『シングルド・アウト』(Singled Out) について

 
 結婚と女の人生。男性と女性とでは人生における結婚の影響のあり方が違う。女性の方が大変だと言いたいわけではなく、単に違うのだ。私は幼い頃から、(今にして思えば)ジェンダー・バイアスには敏感で、「女の子らしさ」を求める社会に違和感を覚え、思春期になる頃には、ジェンダーを前提とする社会常識に強い疑問を持つようになった。結婚だけがその対象ではないが、結婚にまつわる事柄はわかりやすい例である。結婚して急に偉くなったような態度をとる人を何度か見たが、女性の場合、結婚すると一人前になる機会を奪われる可能性が高いのに、このような現象が普通にあること自体が不思議である。これにとどまらず、結婚一つをとっても不思議なことが多い。私はそれらを書きまとめようとしていた。 
 ところがである。既にそのような内容の本が存在した。米国の社会心理学者、ベラ・デパウロ博士の著書 Singled Out である。日本でも『負け犬の遠吠え』などが出版されているが、Singled Out は、会全体の風潮とそれを加速させている学術研究などを取り扱っているという点で、より包括的である。著者に危機感を抱かせたメディアの発表や出版物について、1998年から2005年まで(デパウロ博士の書籍が出版された2006年の前年)の間の流れを追うと、同著で言及されているだけでも以下のものが挙げられる。『ニューヨーク・タイムズ』においてリンダ・ウエイトが「結婚は万人にとってよいもの」と断言した記事、同じくウエイトによる『USA トゥデイ』での「結婚は男女の健康と長寿を助ける」という発言や、本書でその証左と手順について、科学的見地から異議をとなえることになった、ウエイトとマギー・ギャラガーによる『結婚擁護論』の出版。また、それに対する主要紙の肯定的な反応や「成人では既婚者が最も健康である」という題名の疾病管理予防センターの調査発表。さらに、ステファニー・クーンツの『結婚 ---- その歴史』における「西欧と北米の既婚者は、他のどのような生き方をしている人たちよりも、概ね幸せであり、健康である」との主張などである。
 日米間には宗教的背景の違いもあり、アメリカ社会に見られる結婚賛歌や独身者の状況がそのまま日本のものとして置き換えられるわけではない。しかし、日本の婚姻制度が成立した背景には、明治時代に西欧諸国から近代国家として認められるべく西洋文明を取り入れざるを得なかった状況や、アメリカによる戦後の民主化政策があり、日米の両方の社会に類似の結婚崇拝や独身者差別があっても不思議ではない。制度として維持されている以上、日本においても結婚は人生の課業であり続け、様々な語りの中で称賛される。そしてその背中合わせの現象として、はっきりと、あるいは暗黙のうちに、独身でいることに理由を求められることも多い。
 古代日本は母系社会であり、鎌倉時代から江戸時代にかけて武家社会の発達とともに家父長制が広がった。善積京子氏によれば、明治13年の刑法典において妾の親族上の身分が廃止されて、新たな妾の登録が中止されるまで、明治時代の「新律網領」、「太政官布告」では一夫多婦的な妻妾制度が公認されていた。婚外子の扱いも異なる。しかし、西欧諸国の植民地化を避けるべく、条約改正に際して、西洋文明を吸収し、国内改革を進めることが課題となり、かねてから西洋人から批判を受けていた妾制度を廃止して、一夫一婦制を取り入れざるを得なかった(『婚外子の社会学』、世界思想社、1993年)。このような流れで見た場合、婚姻制度の根本にある思想や、それと対比する形で浮かびあがってくる独身者であることの社会的位置づけを理解するうえで、西洋文明下の一夫一婦制婚姻制度の成り立ちと独身者の扱いに目を向けることは興味深い。
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 さて、話を中断するようで申し訳ないのだが、実は、これは、Singled Out の邦訳版『シングルド・アウト第1巻: アメリカ社会のシングリズム(独身者差別)とマトリマニア(結婚熱)』の「邦訳版あとがきにかえて」の一部抜粋である。
 私はこの本に出会って、すぐに著者のデパウロ博士に連絡をとった。邦訳版を出させて欲しいと頼んだのだ。自分の力不足を反省せざるを得ないのだが、その後、どの出版社からも色よい返事はもらえず、結局は電子書籍として出版することにした。
 西洋文明下の一夫一婦制婚姻制度の成り立ちと社会における独身者の扱いについて、あとがきで読んでいただければ幸いであるが、今回のブログ記事に興味のある方は、なんといっても、『シングルド・アウト』そのものをご一読いただきたければと思う。出版前に「日本は独身天国。アメリカとは状況が違う。」という声も聞かれたが、少なくとも私は違和感を持たずに読むことができた。もちろん、例えば、同著の話題として登場する「離婚長者」というような概念は日本では浸透していないなど、具体的な状況や背景の違いはある。しかし、このブログの内容に興味を持たれた方ならば、根本的には共感できるはずである。日本人として日本に住んでいたとしても、全く違和感なく読み進められると思う。
 『シングルド・アウト』は、既婚者と独身者の対立について扱ったものではなく、邦訳版を手掛けるにあたり、私が既婚者であることと翻訳者としての立場は決して矛盾するものではないと、ここで申し添えさせていただく。


2017年5月2日火曜日

INTRODUCTION

 世の中には不思議なことがたくさんあるものだ。
と、明確に認識できれば、その原因をおのずと折に触れて考えたりするものだが、漠然とした違和感を覚えたまま、そのような違和感が頭の片隅で眠っていることもある。また、ある事柄に対して感じている違和感を口に出すや否や、あるいは、時には、その違和感が喉につかえたままの状態で、その違和感を誰とも共有していないと悟ることがある。逆に、そのような事柄への共通の反応が試金石となって、人との交流が深まることもしばしば。いわゆる「価値観が同じ」、「考え方が似ている」という状況だ。
 私は自分では、世間一般で言うところの「普通の家庭」に育ったと思っている。家庭の中を覗いて一人ひとりを観察した場合には、それぞれ特異な部分はあるかもしれないが、無責任に外から眺める分には、ごく普通の家庭だと思う。その「普通の家庭」に育った私だが、その辺でなされている会話にうっかり参加すると、ただストレスの連続になることが多い。私にとっては不思議なことであるが、同じ道筋で物事を考えないと納得しない人たちが世の中には多くいるからだ。そういう類の大多数の人たちに取り囲まれて人生を送るのだから、生きていく上で関わらなければいけない様々な仕組みに、いちいち疑問を感じてしまう。世間との軋轢とも言うべきものなのか。
 つまり、私は、人の世が面倒くさい。何となく集まっている人々の集団の中では息苦しく、かと言って、特に何かに秀でているわけでもないから、どのように生きていても、人を納得させるような事実もなく、単なる変わり者としてあちこちに引っかかりが出てしまうからだと思う。頭脳明晰ならば、自分の生きる道を見極めて、確実に自分の足場を築き、裕福かそうでないかは別にしても、何らかの形で自分の能力を活かすという意味での拠り所のある人生を送っているだろう。
 世間の人の無意識の愚かさには敏感でも、自分自身の愚かさには対処しきれない。当たり障りなく人づきあいをしようとしても、疲労感や虚無感が大きすぎ、さらには結局、無理である。どうしても奇人変人的な要素が表面化してしまう。それならそれと割り切って、それなりに生きようとすると、社会の仕組みにいちいちぶつかって、結局は、苦労しても何の結果も得られないという状況が待っている。
 さて、私は女である。何となく世間との距離を感じているからには、当然のことながら、女としての生き方にもある程度の葛藤があった。なぜなら、今でこそ昔ほどではなくなった(のではないか)と思うが、結婚、出産というものが、女としての自分の人生を考える上で、避けては通れない課業のようなものだったからだ。ここまで読むと、結婚と仕事のどちらかの選択に迫られて悩む、仕事と家庭の両立で悩む、などの言葉が頭に浮かびそうだが、私の葛藤は、ある意味、自業自得的なものであり、もう少し屈折していた。なかなか就職できない上に、就職先の場所を選べなかったため、就職することと家庭を持つことが、確かに心理面を除いてはいい関係ではなかった。結果的には求職者のまま結婚したのだが、結婚制度がもたらす様々な不思議について、既にある程度の違和感を持ちながらも自らも結婚し、ぬるま湯に浸かっているとも針の筵に座っているとも言えそうな、なかなかの葛藤の日々を送った。
 このぬるま湯と針の筵の関係から生まれる葛藤とはどのようなものであるか。結婚している状態というのは、考えようによっては、ぬるま湯に浸かっているようなものである。結婚して子供もいます、普通の妻、母です、という空気を全開にして、何か重要なことが肩にのしかかりそうになったら、夫に聞かないとわからないと言っておけばいい。これを実践するには、世間の人と歩調を正確に合わせていかなければいけない。ほとんど同意できない意見に対しても、心の底から納得したように受け止めなければいけない。そのような振る舞いは、それが本気でない限り苦痛だ。心はほぼ死んでいる。そして、その一方で、自分の目指すべきものに悩み、ただ毎日が過ぎていくことに焦りを覚える。妻や母であることに満足せよという空気も時には感じながら。
 しかしながら、幸せだったかどうかと聞かれたら、幸せだったと思う。子供も生まれて、さらなるエネルギーが湧き、生きる意欲が倍増した。子供はエネルギーを奪うのではなく、与えてくれる。自分に100のエネルギーがあったとしたら、子供を二人産んで、300になったと思う。ふわふわした表現だろうけれど、実感として。
 今も結婚生活を続けている。私は幸せだと思う。葛藤は影を潜めている。なぜなら、寛容な愛すべき夫の協力のもと、子供らと共に日常の場をしばらく異郷の地に移したからだ。窒息しそうな世界から離れたという解放感。特に、次の二つ。子供を持っているという以外はほとんど共通点がないにも関わらず、無理やり一括りにされている「共感しあうべき親たち」の世界と距離を置くことができた。それと、こう言ってはなんだが、不思議だらけの自治体の活動に住民として巻き込まれることもない。

 世の中と上手に折り合いをつけて生きていく自信は未だにない。けれども奇跡的に幸せだ。遠方にいながらも、気の合う友人らと四方山話をし、励まし合いながら、しばらくは異郷の地の時間を活かしたい。子供らはなかなか大変だと思うが、よく頑張っている。